
続・続・夕餉

「あ、だからいくら調べても宿としては詳細が知れなかったんですね」
マスターの言葉を受けて倫子さんが納得したように呟いた。
「そうでしょうね、しかしよく此処が宿として機能すると察知できましたね、鋭い直観力だ」
マスターが言う。
先ほど少しではあるが意外そうな表情をしたのはこのせいだろうか?
「あ、そうですよね。 どうして此処が宿だと思ったんだろう?」
今更になって疑問に思った倫子さんである。
「いつ頃此処を発見されたんですか?」
マスターが倫子さんに問いかける。
「えっと、桜が咲いていたから、今年の春ですね。
確かお庭の桜の樹のところに垂幕が掛かってて・・・それで、あぁ、誰かを招待するんだなぁと思ったんです」
それで歴史のある宿なのだと思い込んだのかもしれませんねと、
倫子さんが澱みなく答える。
「ああ、春なら神接待だ」
独り納得したようにマスターが言った。
『神接待ってなんやわいね?』
マスターと倫子さんの会話に入れずに麦酒を飲んでいた104氏がここぞとばかりに質問する。
「読み字の儘だよ」
マスターが話す。
日本には八百万の神がおわすだろう。
禅僧である亭主がその中で春と秋の二つの季節に各季節の神を此処に接待すること。
それを神接待と読んでいること。
その神接待の時期にだけ此処は宿として人間にも開放されること。
『へっ? ということは今は秋の神様を接待してるところなん?』
104氏が聞いた。
「ああ、その通りだ」
飄飄とマスターが答える。
『神様って本当にいるのん?』
104氏が思った通りを言葉にした。
「当然存在するさ」
更更とマスターが答える。
マスターの話によると、神は因習であり文化であるということだ。
それらは、いにしえよりカタチを描かれ、性質を定められ、敬い畏れられてきた。
だから、人間が文化に接して生きている以上、必ず人間の中に神は存在し得る。
「此処の料理は旨いんだが、亭主は出来得る限り調理をしない」
マスターが続ける。
料理にもてなしの心を副えるということ。
それは、もてなす対象へ思いを馳せて山川を巡り神による産物を得ること。
文化も神であれば自然も神である。
自然たる山川に食物が宿り、それを得て生きてきた人間の因習が神を生んだからだ。
余計な手を加えないで、素材の儘で旨い料理を提供する。
気候たる厳かな自然が、豊饒な大地なる山が、清浄なる川が、神たりて食物たる恵みを生き物に与える。
それをいただく、食に関するこれ以上の贅沢はない。
そこにもてなしの心と感謝の心が副えられる。
「たぶんもう神は訪れているんじゃないか?」
そう言い、にっ、とマスターが笑う。
倫子さんが、ぽぅ、っとしながら―――
「新しい世界観に触れました。 優しい気持ちになれます。 やっぱり此処にきてよかったです」
―――と言った。
『人間の心の中に神様はいるということかしらん?
どうして夏と冬は神様を接待しないやわいね??』
104氏が聞いてみる。
そこへ、亭主が再度ここ囲炉裏端へ顔を出した。
「今日張った仕掛けに仰山モクズが入っておってのぅ、これだけあると食べ応えも十分じゃて」
そう言いながら、がさごそ音のする木箱を卓上にあげる。
聞き慣れないモクズという言葉に104氏と倫子さんが木箱を覗き込む。
そうしてから、二人が小さく顔を引き攣らせたのはほぼ同時であった。

木箱の中には腕の鋏に黒緑色の毛を生やしたカニが数十匹は蠢いていた。
「・・・カニさんですか?」
異形の生命体を前に倫子さんが言う。
「カニさんですよ」
可可と笑いながら亭主が愉快そうに答えた。
「ま、これも神のひとつのカタチだな」
マスターが言った。
「これこれ、解った風なことをいうでないぞな」
困った奴だと亭主が呟きながら、囲炉裏で土鍋に湯を沸かし始める。

「解った風もなにも俺に五行説やらを説いたのはあなたですよ法師」
マスターが亭主のタンブラーを麦酒で満たす。
「まったく、お前は無信仰でおる癖にこの世のすべてを知りたいと欲し過ぎなんじゃて」
旨そうに麦酒を嚥下し亭主は腰を下ろした。
解らない事は解らない儘でよいのだと亭主は言った。
そして、何もかもの蓋を開ける行為は好かんのじゃとも。
「世の人より多くを知る事は、すなわち多くの禍禍しい物を拾うということじゃて」
温和な眼差しで亭主がマスターのタンブラーに麦酒を注ぎながら言った。
「全部承知の上ですよ」
モクズガニを食うのは久し振りだと嬉しそうにマスターが言う。
『このカニは美味しいのん? この麦酒は大変に美味しいやわいね』
「私もこのカニは食べたことがないです」
104氏と倫子さんが言う。
「この麦酒はヒューガルデンだ」
ベルジャンスタイルの超有名銘柄だな、とマスターが言う。
流石に本職である。
「甘くて酸味があるのに円やかで、それでも爽やかです」
なんだか複雑過ぎて表現が難しいですね、と倫子さんが言った。
夕餉が始められてから一時間強が経過しようとしている。
少なくはないヒューガルデンの空き瓶が囲炉裏端に並べられている。
―――あぁ、倫子さんが綺麗だなぁ―――
そう思う104氏は酔いが廻っているのだろうか?
その倫子さんも少しぽぅ、としているようだ。
熾火に照らされるせいだろうか陶器のような肌理細かな白い肌が紅紅と染まっている。
マスターを窺う―――漆黒の瞳に囲炉裏の熾火が映り、それが揺ら揺らと燃えている。
その瞳は―――漆黒―――オニキスを連想させる―――
確かオニキスはその昔、悪魔が封じ込められた災いを呼ぶ石と言われていたと聞いたことがある。
あぁ、それでも―――それは現代、魔除、邪気払いの効果を謳われているのだっけ。
―――あぁ、倫子さんの色素の薄い瞳とは正反対だなと104氏は思った。
亭主―――破天荒法師は、慣れた手つきでモクズガニを煮え滾った土鍋に抛っている。
禅には不殺生戒があるのではないのだろうか?
『むかし学校で習った禅というものにはにわか覚えに不殺生戒ってのがあった気がするやわいね』
批難するわけではなく単純な疑問として104氏が亭主に言った。
「ほぅ、よう知っておるの。 如何にも不殺生戒は存在するぞな」
穏やかな口調で亭主が答える。
「不飲酒戒もありますよ」
マスターが笑いながら言う。
「飲むも、食すも、話すも、もてなすも、生かすも、殺すも、すべてが修行じゃてな」
簡単なんじゃが難しいかのぅ―――と続けて亭主が答える。
「だから破天荒法師と呼ぶのですよ」
マスターが言う。
―――禅の為に深きを探究するのでしょう? 俗世での俺を欲深いと言えないですよ―――
そう言い、にっ、っと不敵に笑うマスターは楽しそうである。
「禅は
―――興味だけで禅の世界に足を踏み入れる人間はやはりおもしろいのぅ―――
そう言い亭主は可可大笑し、土鍋から茹ったモクズガニを引き揚げた。

「意外に思うかも知れんが、仏教は死後の世界を認めてはおらん。
死んでしまったらその個としてはそこで終わりじゃ。 魂や霊と言うものの向かうあの世なぞ何処にもないのじゃて。
ただ、残された家族や友人などの、死者を送った者の中にのみあの世はあるのじゃな。
死んだ者はそこ、生前親しかった者の心の中に魂や霊として留まるのじゃ」
―――さて、ここに紅く茹で上がったカニがおるがこれは殺生かのぅ?―――
そう言うやいなや、亭主は目前のカニを一つ手に取り、器用に食べた。

「旨い物を前にして小難しい事を考えんでもよかろうて」
そう言って笑うのである。
「まったく、こうやって話すのが好きだと素直に言えばいいのに」
マスターもそう言いながらカニを手に取り、亭主に負けぬ器用さでそれを食べた。

こうして、マスターと亭主の問答が終わった。
「見た目は拙いけど、味は松葉蟹を遥かに凌ぎますよ」
木箱の中には、まだ沢山の生きた状態の緑色の奇怪なモクズガニが蠢いている。
それを前にして茹で上がったカニになかなか手をつけられずにいる倫子さんにマスターが言う。
「はい」
そう言って倫子さんが恐る恐るカニに手を出す。
倫子さんより一足先にカニを分解することに成功した104氏は驚きの声をあげる。
『なんなんこれっ!? 滅っ茶苦茶旨いやわいね!!!』
「亭主、洗心の純米ありますかね?」
マスターが聞く。
「おぅ、純米大吟醸でよいなら一本あるぞな」
亭主が答える。
「ヒューガルデンで杯を進めるよりもそっちにしましょう」
マスターが言うと、亭主は、暫し待っておれ、と言い置いて囲炉裏部屋の縁側に出た。
そして何処からともなく日本酒の瓶を持ってきた。

「このカニさん、すっごく美味しい」
遅ればせながら感嘆の声をあげた倫子さんである。
対面でその声を聞きマスターがにっ、と笑った。