
楽しく更け往く夜
モクズガニはとても美味しくて、食べても食べても腹が満杯になる事はないかのようだった。
初めはその異形より、恐る恐るの低食欲傾向だった倫子さんと104氏であったが、今は大変旺盛にカニを食べている。
「不思議です。 いつもはこんなに飲んだり食べたり出来ないのに、
今日は食べても飲んでもお腹がいっぱいにならないんですもの」
倫子さんが言う。
『そうやわいねぇ』
倫子さんも104氏も大変に気持ち好く酔えている。
次次とモクズガニを茹でる亭主も実に楽しそうである。
「こんな時が、ずっと続けばいいのにと思うだろう?」
そう言ってマスターが立ち上がり床の間に飾ってあった

「今日に思い残すことは何もない」
続けて宣言するようにマスターが明るく言った。
―――好い気分だ―――
そう言いながら、マスターが甕を指先で
亭主は名残惜しそうに甕とマスターを見比べて―――うぅむ―――と呻った。
そうしてから、
「ほんに今宵は楽しいのぅ、そうじゃの、
亭主はそうマスターに言った。
104氏は沈黙のうちに二人の間に流れたやり取りを聞いた気がして嬉しくなった。
「ああ、もうよい、その酒はくれてやるわい、その代わり・・・そうじゃな唄が聴きたいのぅ」
ふぅ、と息を吐き、亭主が明るい
「殊勝な交換要求ですね」
にっ、とマスターが笑う。
―――この忠孝にはそれだけの価値がある、
「おい、裏の納屋にギターがあるからそれを持ってきてくれ」
そう言って104氏を
『へっ、
104氏が問いかけると、マスターではなく亭主が答えてくれた。
「襖を開けて左に折れた
亭主が言う。
『うぬぅ、面倒臭いけれども、マスターの歌も聴いてみたいからとってくるやわいね』
亭主の言葉にそう答え、104氏は襖を開け、納屋に向かった。
それを無言で見送ったマスターが床の間に顔を向ける。
マスターが手をかけた甕の横には綺麗な装飾が施された木箱が置いてあった。
それに手を掛け―――用意がいいなぁ―――とマスターが言った。
マスターがその木箱を持ち上げるのを見つめる倫子さんが言う。
「うわぁ、素敵な雰囲気の箱ですね」
―――綺麗な雑貨は大好きです―――と。
―――うん、保存状態は良好だ―――そう独りごちてマスターが木箱を開ける。

「いくら破天荒法師と言われていても、贅沢の独り占めはよくありませんからね」
マスターが、にっ、と笑う。
「葉巻ですか?」
倫子さんが素朴に疑問を口にした。
「ええ、葉巻です。 ただし、俗世に出回っている葉巻とは一味違う葉巻なんですよ・・・ね?法師」
倫子さんの質問にそう答えた後、
「まったく、
亭主が眉尻を下げた表情で、マスターにではなく倫子さんに向けて言った。
「ま、細かいことは言わずにいきましょう。 後悔ない一日を送れるなら本望でしょう?」
―――思い残すことは何もない、そんな思いを抱ける日を生涯何日過ごせるかですよ。
ただ過ぎて往くのには我慢がならないんです。 ま、どう生きようと後悔は残るんでしょうがね―――
マスターが、軽やかにそう言った。
「そういうのは悟りとは言えん」
亭主は少し困った顔を見せ言った。
「いいんですよ。 これは俗世の多勢にアンチテーゼを投げつけるなんて小さな試みじゃないんだから」
―――高らかに笑って生きて、最期に泣いて死ぬんです。
生前に諦観を極めることが悟りならそんなモノ、俺には必要ないですから―――
だから、あなたが困った顔をすることはないのですよ、とマスターは言った。
そうしてから、葉巻を手に取り、品定めをするように一本一本を凝視する。

「コイーバのシグロY・・・うん、さすがだ、熟成具合が素晴らしい」
マスターはそう言うやいなやヒュミドールに格納されていたギロチンで吸い口を作り始める。